岡本太郎は、やっぱりスゴイ

 

11月某日、生田緑地に紅葉を見てきました。実は、同地には「岡本太郎美術館」があり、改めて作品群を見てきました。

その陳列の仕方がなんともユニークでした。普通、こうした美術館は、「順路→」のような看板が立てられ、歩いていく方向が促されます。最終的には出口に到達し、一通り見て終わりです。

 

ところが、同氏の美術館には、順路と言うものが存在しません。

 

しかも、行き止まりだったり、突然フロアが開けたり、目線の所にスリットがあって、奥の広間の作品がうっすら覗き見えたり、スロープがあって、いつの間にか上の階層に到達していたり、どこから見ても良いように、自由な見学コースでした。

 

この美術館を企画した方々は、順路によって通り一遍の作品群を見せるのではなくて、岡本太郎さんの作風に習い、自由な発想で見てください。と言う意思が伝わってくるようでした。まるで、岡本太郎氏の頭味噌の中を見学して巡り歩いているような錯覚を覚えます。どのような思考回路を経て、あのような作風が絞り出されたか?を、伺う事が出来る展示の仕方になっています。

 

例えば、藤子不二雄さんの作品には、「オバケのQ太郎」や「ドラえもん」の中に、「ラーメンの小池さん」と言うキャラクターが出てきます。複数の作品に登場してくるので、作者にとっても思い入れの強いキャラなのでしょう。作中で小池さんは、必ずラーメンを食べているシーンで登場します。

 

 

このラーメンの小池さんのお姿を写実的に書き記しても、芸術家としては面白くありません。

岡本太郎氏の作品は、素人の私が見ると、作風とタイトルが、全く符合しないよなぁ…と言うものが散見されます。

 

ただ、このように考えてみたら、少し合点がいきました。もしかしたら、、

 

ラーメンの小池さんは、なぜ、毎日ラーメンを食べたい!という衝動に駆られるのか?その頭の中をグルグルと駆け巡る思考回路を絵で表現したら、作品としてこうなった。

 

と言うのであれば、全ての作風が、また違った視点で見る事が出来ます。

 

でも、最終的には、土産物フロアに到達し、記念品を買って帰る所だけは、他の美術館と同じです。今回は、写真にあるような「マグカップ」と「マスク」を購入しました。

 

ところで、岡本太郎さんは、多くの名言を残しています。

私が、ビビット響いたものを、紹介しておきましょう。

 

1.『私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。』

岡本太郎さん程のスケール感は全く持ち合わせていませんが、私も人生の中で「岐路」がありました。

 

「歯科領域で漢方薬を取り入れた診療をしてみたい」

 

と思ったのが、35歳の頃です。当時は、大阪のスタディグループに参加して学ぶしか道が無かったので、2カ月に1回、会費を払って通いつめました。しかも、始発の新幹線のぞみ号に乗らないと間に合わないスケジュールです。

ちょっと難しいよなぁ…と思っていた時に、

カミさんが、「世の中の営業マンは、大阪位までだったら、日帰り出張で、その位の仕事はバンバンやっているよ」の一言で、世間知らずの私は、背中を押され、大阪に学びに行きました。

 

いったん動き出した道は、一気呵成です。

 

私は、今まで見たことも聞いたこともない、東洋医学に触れて、興奮状態になりました。

 

「もっと、この分野を思いっきり学んでみたい」

 

という思いで、帰りの新幹線の中では、既に「鍼灸師」の国家資格を取得する道を決意していました。

 

直感的に、この資格を取れば、こんな未来が待っている…というビジョンが頭に浮かび、もう、ワクワク、ドキドキ感が、半端なかったです。

 

いわば、東洋医学に「初恋」をしたのです。

 

こうなると、夜間の専門学校に通う辛さよりも、初恋のホットな気持ちの方が上回ってしまいました。帰宅して、

 

カミさんに「オレ、鍼灸師の学校に行くから」

 

と、決意表明をしたことを、今でも鮮明に覚えています。今にして思えば、岡本太郎さんの言葉にあるような、「困難な道を選べ」と言う教えが、身に染みてわかった人生の分岐点でした。

同氏は、同じような言葉で、

『危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。』と言う教えも残しています。

 

この先、子供たちが進路で迷っている時があったら、迷うことなく、困難な方を選択してごらん…と、アドバイスしようと思います。

 

2.『ものがそこにあるという尊厳。これはいったいなんだろう。ただあるというだけなのに。』

この名言は、私が子供の頃から、ずっと疑問に思っていたことを、端的に言葉に表していたので、一番、心に響きました。

 

例えば、ここにテーブルに1個のリンゴがあったと仮定してみましょう。

 

そして、このリンゴを手に取って持ち上げると、何気ない事ではありますが、取り除いた部分には、

 

「今まで、リンゴによって占有されていた空間が、改めて、この世に現れて出てきます」

 

これは、よく考えれば、結構おかしなことです。あまりにも普通のこと過ぎて、何を言っているのか想像もつかないかもしれませんが、

「リンゴがそこにある」という事の裏には、

「リンゴが存在しないときに、そこにあった空間は、いったい、どこに行っているのか?」と言う意味合いが隠れています。

 

例えば、このように考えてみましょう。

水槽の中に、鉄球を置いてみたと仮定します。周りの水は、鉄球という物質が入ってきた事により、脇に除かれ、鉄球の外に追いやられます。

鉄球と水は、別の物質態なので、両者は相容れません。

 

次に、水の中から、鉄球を手で持ち上げれば、そこには、元の水で埋め尽くされ、鉄球があった所には、水という存在のものが戻って復活します。

 

それでは、今度は、水槽の中に、スポンジを入れた時はどうでしょうか?

 

水は、スポンジの中に、浸透・透過し、一体となって水槽の中に存在しています。

スポンジが、あろうがなかろうが、水は、スポンジの場所に相変わらず存在しています。

 

この事から、ある態を成した場所に、別の物体が存在する時には、その態となす物を「押しのけて」そこに存在しているのか?あるいは、その態となすものを取り込んで、「一体となって」存在しているのか?など、色々な条件を考える必要があるのです。

 

私達が存在している「空間」も全く同じで、仮に、空間が水槽の水と同じような「態をなすもの」であった場合、机の上のリンゴは、どの様な機序で、そこに存在しているのでしょう?

 

●空間を脇に除きながら存在しているのでしょうか?…それとも、

●空間の中に取り込まれて、スポンジのように一体となって存在しているのでしょうか?

 

もし、空間が脇の除いて存在している場合は、反作用として空間の「湾圧」が存在するはずです。事実、水の場合には、「水圧」という力が物体に作用し、深海に行くほど、ペシャンコになる位、その圧は強大です。

 

私は、上記2つの存在理由の内、どちらよりかと言うと、物体と空間は、浸透透過して、両者は同化しているのではないか?と言う考え方を持っています。

 

学生時代に習った「原子模型」を見てみても、核の周りを電子がクルクル回って、その間は隙間だらけです。現代科学は、この隙間の部分を、殆ど考慮していません。実は、この空間にこそ、大きな秘密が隠れているのではないか?と、私はにらんでいます。

 

正に、色即是空・空即是色と言う概念がピッタリ当てはまってきます。

 

その証拠に、実際、何もないと思われがちな空間ですが、ちゃんと物質態として「変形する時」もあるのです。例えば、超高密度な物体や高重力の下では、真空の空間は、ひしゃげ、脇に除かれ、湾曲するのです。

 

高重力の環境下では、空間も変形して歪むのです。

 

仮に、この時の湾曲した空間が、元に戻ろうという反力は、水圧の比ではないはずです。実は、私たちの地球の中心部のコアは、超高密度です。空間が浸透・透過できないほど、「密」です。

 

すると、空間は脇の除かれ、湾曲します。その元に戻ろうとする湾圧が、「重力なのではないか?」と、私は考えています。

 

そして、もっと言うと、私達の身体の中にも空間は、浸透・透過しています。ただ、どこかに滞りが生じると、均一に浸透している空間のバランスが悪くなり、空間の透過率に変化が生じ、局所にうっ滞を起こします。

 

すると、その部位に、障害や病気が現れ、その空間の「浸透度」を調整するために、「風穴」をあける作業が、「鍼灸治療」なのではないか?

と、私はにらんでいます。

 

岡本太郎さんは、この仕組みを、「尊厳」という言葉を当てて、ズバリと言い表しました。死して、なお、後世の人に影響を与える、圧倒的なカリスマ性…改めて、すごい人物だったんだ…と思います。