鎌倉時代の東洋医学

 

2022年、NHKの大河ドラマでは、「鎌倉殿の13人」が放送されています。名脚本家の三谷幸喜さんのシナリオなので、毎週、楽しんで視聴しています。

写真は、鎌倉八幡宮の鳥居ですが、戦乱の世とは異なり、現在は、平和な日本になっています。

 

ところで鎌倉時代の頃は、どんな漢方医学だったのか?いつ頃の時代に、現代医学の基礎となるような考え方が広まったのか?日本における東洋医学の歴史を考察してみましょう。

 

●6世紀の頃、中国の大陸文化が伝来し、仏教と共に医学の分野も日本に入ってきました。その後、7世紀以降になると、遣隋使・遣唐使の交流により、正式に中国との交流が始まり、一気に文化が広がりを見ました。

 

●特に、701年に「大宝律令」が施行され、漢の時代の医学書が、当時の日本の医学生の教科書として重用されました。

 

●その後、平安時代になると、我が国における最古の医書として『医心方』が残存しています。本書は、隋唐医学の集大成で、日本の風土、食習慣などが反映された初めての医学書になります。

 

●そして、テレビで取り上げられている、鎌倉時代になると、社会の趨勢は、貴族から武士に移り、貴族社会にいた宮廷医が、僧医たちへと移り変わり、その技術は、広く大衆へも還元される事となりました。

 

ここにきて、中国の中薬から離れ、日本独自の漢方薬が生まれていきました。

テレビに登場する平家や源氏の偉い人も、漢方薬を服用していた可能性があると思うと、何となく親近感が出てきます。

 

●次いで、室町時代になると、中国の金元医学を参考に継承した「李朱医学」が重用され、江戸時代初期に至るまで繁栄していきました。

 

●そして、17世紀後半、江戸時代中期以降に、漢方では知らない人がいない『傷寒論』を重んじるようになり、「古典へ帰れ」と言う常套句と共に、古方派と言う流派が誕生する事になります。

古方派の第一人者の吉益東洞は、病気の原因は、全て一つの毒に起因し、その所在によって、さまざまな病気が発生すると解釈し、その治法は、病原を直接攻める攻撃的な施術でした。

そして、その子である吉益南涯は、父の理論をさらに進歩させ、「気血水」をベースとした学説を提唱し、ここに至って、病理と治療を、大きく発展させる事となりました。

 

この理論は、現代でも充分通じるもので、現代漢方にも影響を与えています。

 

その後、流派、派閥にとらわれることなく、良い物を積極的に導入する「折衷派」が現れ、和田東郭らの登場により、さらに漢方医学は進歩していきます。

 

●江戸後期には、漢方古典を客観的に解釈し、後世に残すために文献整理を目的とした考証学派が登場したことにより、江戸医学館が建設されます。

 

●ところが、明治時代になると、西洋化・富国強兵に舵を切った日本政府は、漢方医学の根絶を目指し、漢医を認める願いは帝国議会において否決され、漢方医療は、大きく衰退していく事となります。

 

今日になると、代替医療の見直しにより、昭和になって再び脚光を浴びる事となり、現代医療では欠かす事の出来ない位置づけになっています。

 

こうした観点で見ると、政治・その時代の君主の方針・伝来した医療の質により、漢方医学は、大きく揺さぶられる事となりました。ただ、それでも、完全に根絶やしにすることはできず、今日に至っています。私が専門とする口臭治療も、漢方処方無しには考えられません。

 

製薬会社からの情報では、保健医療体制から、漢方を外すべきだ!と言う噂も耳にします。

 

何とか、時代に翻弄される事無く、漢方薬も鍼灸も、後世に至るまで、末永く続いていく事を願っています。