歌舞伎と東洋医学

 

2023年は、いつもの伊勢山皇大神宮への初詣に加え、初めて成田山へのお参りもしてきました。子供たちが成長し、「僕が運転して、遠出したい」と言う要望を受けての参拝です。

 

行きは息子が、帰りは娘が運転します。

 

とはいうものの、高速道路は、半自動運転で移動できるので、ドライバーは、前を向いてハンドルを握っているだけです。それでも、親としては、自分が運転するよりも、何倍も緊張感が伴うトリップです。

 

成田山へは、なんの予習もしないで行ったものですから、到着後、その規模に圧倒されました。

私が居住する横浜鶴見にも、「総持寺」と言う総本山があり、かなりの広さですが、それを何倍も上回る規模でした。御朱印も、随所に6か所用意されているのですが、あまりの混雑で、5枚までは集まったのですが、最後の6枚目は断念しました。

 

一番の違いは、お寺の周りで営む、土産物などのお店の多さです。綿あめやたこ焼き屋さんのような出店はもちろんの事、チャンとした店構えの店舗が、参道に至るまで、道の両側に乱立しているのです。

 

対して、総持寺は、そうしたお店が殆どありません。店が有るのと無いのとでは、正月のウキウキ感が全く違います。出店もあるにはあるのですが、規模が違いすぎます。

 

成田山の博物館に行った際は、その昔、歌舞伎役者が、後継者として男の子を授かるために祈願に出向いた所、めでたく男児をもうけた事から、成田山と歌舞伎との交流が始まりました。

 

あの、「よっ、成田屋」と言う掛詞は、成田山が由来だったのです。

 

【歌舞伎と東洋医学】

歌舞伎の演目の中で、『仮名手本忠臣蔵』と言う物があります。天明5年(1785年)に、『古今いろは評林』という書物にその記録が残っています。この中に、

 

 (https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/play/play3.htmlより引用)

 

「忠臣蔵の狂言、いつとても大当りならぬ事なき」という記述があります。

この演目が、上演する度に満員御礼になる作品であると、評価されている事が分かります。

当時の人は、『仮名手本忠臣蔵』を、「芝居の独参湯」と例えられるようになりました。独参湯とは、当時を生きた人々の中で、「万病に効く起死回生の気つけ薬」と評判の薬でした。

 

独参湯の処方構成は、詳しくは分かっていません。ただ、朝鮮人参をベースにしていたことは分かっているので、慢性疲労・卒倒などの症状の時の、「気つけ薬」として処方されていたことは間違いない様です。

 

 

 東洋医学も歌舞伎も、伝統を重んじる…と言う観点で見た場合、相通じる一面があります。

 

伝統を継承する重さについては、歌舞伎役者の七代目中村芝翫(なかむらしかん)が、『駒形どぜう噺』の口上で、以下のように述べています。

 

「伝統を守ると簡単にいっても、一代一代がしっかり継承しなければ、継続はできません。続けば続くほど、責任が重くなるのです。受け継いで当たり前。途中で挫折してしまえば、その器でなかったとか、ごくつぶしで道楽したな…と、世間から言われるだけです」

 

ここに、師匠と弟子となる「徒弟制度」が、良きにつけ、悪しきにつけ、出来上がる事になります。

 

これは、東洋医学でも同じで、多くの治療家が、弟子に極意を伝授する事で、継承されてきました。最初の医学理論書『黄帝内経』をさかのぼれば、東洋医学は2000年の伝統を有します。近年になって、エビデンスに基づく、科学的検証も進み、8割以上の医師が、臨床で処方するようになりました。

 

残念ながら、私に「弟子」はいません。

還暦を過ぎて、自分の仕事のエンドが見えてきた時、弟子を作っておけば良かったかな…と少し思っています。